数秘講座〈無料ONLINE〉

〈ペア数・2〉あらためて数秘の有用性

現代社会の風潮は生命の否定?

個人と社会ではどちらが優先されるべきでしょうか?

見出しの問いは答えようのない問いのようですが、個とその集合体である全体は本当は等価です。

これは空疎なヒューマニズムではありません。常にどちらのみが優先されたなら遅かれ早かれその種は滅亡を迎えるのですからやはり、理論上は等価ということになります。

実は1匹のアリですらその帰りが遅ければ周囲が心配したかのような行動をとりはじめ数匹の捜索隊がでます。これは彼らが個であり全体という存在でありどちらが優先でもないことを彼らが知っているからです。

であるにもかかわらず社会規範や一般常識と呼ばれるある種のルールはとかく個の自由を過剰に制限する方向へ傾きやすいのも事実。

これが行き過ぎると社会が個人個人に他と同じであるよう均一性を求めるようになり、それはまず子供達の教育の現場から始まります。

日本では均一な人間を作り上げることをその第一目標とする教育機関が子供の教育の大半を担うようになって数十年が経ち多くの人たちが他者に自分と同じであることをナチュラルに求めるようになってしまいました。自分がそうであるなら相手も当然そうであるという無理な前提や、多くの人がそうであるから、それが常識だから、皆そうあるべき。という考えが感覚的なレベルで心に根付いてしまっています。

これは生命の否定といってもいい状態です。なぜなら生命は同じ存在が2つとないように作られているのですから…

不安に基づく根深い同調

ちょっと話が遠回りになってしまいましたが個が生来持っている特徴(個性)というのはそもそも変わりようがありませんし、無理に変えるのも禁忌です。つまり均一にして統一することは不可能なのです。(本来は個の自由が完全に担保されたとき全体の秩序も保たれるというのが自然なのだと思います。)

例えば、勉強するとき静かな場所が集中できるという人は多いかと思いますが雑然とした場所の方が集中できるという人も実際に存在します。

これは言われれば頭では理解できます。

しかし、他者と自分に相違点を発見したとき人は、相手が何か、どこか、間違っているか少し変わっているのではないか?という疑念を持ちますがこれは不安からくる防衛反応です。

なぜ不安になるかというと、自分が少数派だったり変わり者もしくは少数派であるという可能性が浮上するからです。(得な性質、損な性質が存在するように見えるのはそれだけ社会の価値観が画一的で貧しいから)

先述のとおり現代社会は統一幻想の支配する世界であり多数派 = 正義ですから、変わり者や少数派は損を被ります。そこで常識や多数決を持ち出して自らの正当性を探すのです。
このような営みは日常生活の中で自動的に処理されている思考パターンであり、このことに自覚的な人はあまりいません。

他者と自分は違う。
違いに優劣はない。

この至極当たり前のことが「綺麗ごと」のようにしか認識されていないのが現状です。

独立した個人として必須の認識を養う

数秘はたった1つの数が個の特徴の違いを克明に表現しますので、これに親しむことで個性の違いをごく当たり前のこととして受け入れられるようになってきます。

社会に依存しすぎない「独立した個人」として生きるのにこれほど重要な認識は他にあるでしょうか?

実用面での有用性

このことがわかっている人はあらゆる場面で本当に必要なことに力を注ぐことができます。例えば、あなたが人と接する仕事をしているとして事前に相手の、

  • 物事に対する理解力
  • 興味のある分野
  • 伝わりやすい言葉
  • 好みの雰囲気(真面目、ノリがいいなど)
  • 苦手なこと
  • 喜びの源

などがわかったらどれほど無駄なエネルギーを割かずにいられるでしょうか?
伝えたいことをその人に最も適した表現で伝えることができたなら?
そしてそれが1人ではなく10人、100人とつみかさなったらどれだけの差が生まれるか?

想像することは難しくありません。人と接する仕事の人が数秘を使いこなせるようになれば、手放せない技術となるのではないでしょうか?

ある医師の方は数秘術と占星術を身につけており、患者とのコミュニケーション上の言葉選びや説明の仕方の参考にしているという話を聞いたこともあります。

カルテの生年月日から即座に鑑定し、相手のタイプに合わせどのように説明すればより正確でスムーズに自分の意図が伝わるかを判断しているそうです。

例えば数秘7であれば努めて無駄なく論理的に、3であれば平易に飽きさせないようにといった具合です。

長期治療の継続に必要な目標設定の伝え方を相手の目線に合わせて変えることもモチベーションを維持するのに役立ちそうですね。

よくある心配

そのような技術を身に付けてしまったらそれ以降、人を画一的な枠にはめて人を見るようになるのではないか?という懸念はよく耳にします。

数秘を長年使ってきた私たちからすれば、そのような心配は杞憂であることは明らかです。

同じ人と長く付き合うことで数字の解釈が深まることはあっても人が薄っぺらに見えることはありませんでした。むしろ、数秘をとおして人に興味が湧いてより深く観察するようになったくらいです。

画一的な定規を当てることで、その人の個性をより明確につかむことができるからです。

例えば拾った石に物差しを当てると物差しに沿わない部分がたくさんありますし、わかるのは大まかなサイズだけで、物差しの目盛り以下の詳細なサイズについても不明です。

さらにその石にはサイズ以外にも重さや種類なとたくさんの性質があり、どのような経緯をたどっ

その形になったかなど物差しだけでは測れない要素もあります。ある石について研究しようとしている地質学者がそのサイズだけ知って終わりにするでしょうか?
命術師が人を画一的に判断するようになったのだとすれば、それは命術の問題ではなくその術者の人間に対する関心のなさが原因でしょう。命術はあくまでも人が主役ですので術者の人間に対する理解が深まるにつれ数の解釈も深みを増していきます。

別の見方をすれば、サイズや重さといった画一的な特徴がわかるだけでも最初のアプローチには十分といえます。持ち上げるのに手で拾えるか?何か道具が必要か、重すぎるので諦めるべきか、手持ちの箱に入るか?などがわかればひとまずの対処はできますので、この用途であれば物差し(命術)は十分役立つものとなり得ます。道具を上手に使う人、道具に使われる人どちらになるかはその用い方次第というわけです。

便利な道具を使うと堕落する。というのは文明の利器に頼り切った末の失敗を味わった現代人特有の懸念といえるかもしれません。